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2018年5月 3日 (木)

練習量過剰で 「脳がロー・パフォーマンス慣れ」 する

長距離レースへの伝統的アプローチは「量を積む」こと。

できるに越したことはないと思う。その弊害を避けられている限り。

弊害の1つに「故障」が挙げられるけど、僕は故障経験が一切ないので(外傷除く)、そこはわからない。「疲労蓄積」もいわれるけど、そこまで練習したこともないので、わからない。疲労で「テストステロン低下」ともいわれるけど、さっぱりわからない。

僕にとってリアルな弊害とは、脳が悪い走りを学習してしまうことだ。

逆に、良いレース準備とは、脳と体に「良い走りだけをリハーサルさせる」。良い走り(&泳ぎ)とは、ペースとか数字の話ではなく、「レース状況でできる最も効率的な動作」であることが大前提。その結果として数字が良ければ良いし、疲労蓄積&リカバリーでゆっくり動かしてても、動作スキルのトレーニングになっていれば、それは良い練習だ。

 

<理論的根拠>

『超一流になるのは才能か努力か?』(フロリダ州立大アンダース・エリクソン教授, 2016)

  1. あるところまでは、量を積めばいけるが
  2. 「なんとなくできるようになる」と、そこで上達が止まる
  3. この壁を超えるために、 "deliberate practice" = 目的を持った熟慮されたトレーニングが必要
  4. 壁を越えた成長へ

というのが頂点への道だ。

これを踏まえて僕の考えを書くと、「練習量を最大化すること」を目的にするのなら、2.「なんとなくできるようになる」というレベルの動作を繰り返すことが、近道だと思う。これにより練習量は自分史上最大にまで増やせるのかもしれない。しかし、そこから先へは、上達しづらくなってゆく。それが同書のいう脳レベルでの話。

同時に、スポーツでは疲労によって動作の劣化が進行する。そんな練習を重ねるとは「レースで失敗する状態」を、脳と体に焼き付けてゆくということだ。

かくして、練習量過剰によって「脳がロー・パフォーマンス慣れ」する。

脳*は全ての起点なので、脳ができないこと以上のことを身体がしてくれることはない。(*脳=神経・マッスルメモリー・その他の知的なものを総合的に含む)

※なお日本語訳では「限界的練習」という言葉が使われており、その原語が "deliberate practice" だとはAmazon書評を信頼して書いた。限界、を逆に受け取る日本人多そうで怖い。「もう限界だ! いや根性でのりきる!」 的な限界とは全く逆なのは、文脈からは明らかなので、ちゃんと読めてさえいれば良いのだけど。

※この本は、ネット記事などでよく引用される「1万時間の法則」(マルコム・グラッドウェル, 2008)を発展的に批判したものでもある。(ある種のトッププロはたまたま1万時間の練習をしたかもしれないが、だからといって1万時間で一流になれるわけではないから、粗すぎるし、場合によっては有害)

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<経験的根拠>

僕の2010-2014年のJTUランキングチャレンジはずっとその方針。

とくに実力を大きく上げた2012−2013年に、確信を持てた。

当時の目標設定は極めて具体的で、1位にしか意味はなく、2位なら取る意味がないと思っていた(デビュー年に取れてしまった順位なので)。

しかしそのためには、好調をとりもどしつつあった広島の福元哲郎さんに直接対決で勝たねばならないだろう。直接対決で勝つためには、実力で同等以上にした上で、予想しうる様々なアクシデントも封じねばならない。しかもその締切日は決まっている。

同時にそれは、僕の能力の限界領域ギリギリ(=Marginal)の、チャレンジ度MAX。そんな必達目標だった。

どのようにすれば実現できるか? ということをただただ考えていた。

すると浮かんでいたのは、例えば、「1km3:50ペースで幾ら走ってもダメ、1km3:30を使いこなせるようにならなければ絶対無理」といったイメージ。

こうして、「最高のイメージを更新し続ける」というトレーニングの大方針が自然発生した。

それでやってみて、望む結果を得られたので、2013年8−9月のKONA Challenge 期間* では、さらに鮮明に実行してみた。量的&期間的には不十分だったろうけど、それでも、ロングデビュー&条件の厳しいKONAで9時間35分という程度の結果なら残すことはできた。入賞とかはしてないので、まだ上はあるわけだけれど、自分史上で最高の状態を作り、そのとおりに力を出し切ることなら、実現できた。

逆に、失敗した2015年宮古では、「最高のイメージ」に至らず、なんとなくやってしまった。

この2例があれば、僕にとっての理解は十分。

* 「とはいえロングで量も必要ではないのか?」という質問もよくいただく。もちろん「必要な適応反応のための量」は必要、ただその中身は deliberate に考える必要がある。原理は共通。

 

<詳しく知りたい方へ>

著書 『覚醒せよ、わが身体。トライアスリートのエスノグラフィー』 p95-124, p135-166あたりお読みください。そしてその顛末を第4章で。

最近よく聞かれるので、要点を書いた次第。

読んだ人の数だけ正解がある話です。たとえば「練習量過剰」といったとき、どこからが過剰か、どこまでそうでないのか、そこに正確なモノサシはないわけで。なので、みなさんにとって、そこに至る1つのヒントになれば嬉しいです。

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『覚醒せよ、わが身体。〜トライアスリートのエスノグラフィー』

  • 初著作 2017年9月発売

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