« 2018年4月 | トップページ | 2018年6月 »

2018年5月の2件の記事

2018年5月14日 (月)

モチベーションの3段階と「きっかけ」について

今春より、「3年でアイアンマン世界選手権KONAに出よう」というプロジェクト KONA Challenge supported by MAKES がトライアスロンLUMINA誌の主催で始まった。そういえば僕も
3年と10日ほど。これくらいが集中力も保ちやすい。やり方が正しい限りね。Yes, we can! Make Anatawo Great Again! w
 
知人も何人か正規&準正規メンバーとして参加し、また刺激を受けたという人も何人か。以前、ブログ記事 覚醒せよ、わが身体。(②レールのないジェットコースター編) で本を紹介いただいたブログ主さんも準正規のフレンドメンバーになり コナ目指します – KONA Challenge supported by MAKES と気合入っている!
 
この様子をFacebook上で見て、モチベーション=動機ってこういうものだよなあ、と思った。
つまりは「きっかけ」に行くつくのではと。
 
 
// 歴史 //

そもそも、モチベーション、とは?

もともとはマニアックだった気もするこの言葉がひろく使われるようになったのは、リンクアンドモチベーション社の貢献もあるだろうか。バブル崩壊から10年、リストラまみれの2000年に創業、もう出世と給料じゃ社員は動かないよ、やる気だよ、という一点突破でブレイクした組織コンサルティング会社。だとすれば、21世紀に突如出現し浸透した概念てことになる。

たとえば「モチベーション曲線を書いてみましょう」なんて研修がある(オリジナルは欧米かな)。自分の意思とは無関係に「モチベーションという独立したもの」があるかのように扱うことで、目に見えない心理状態を可視化し、客観的なモノとして認識させて、操作可能とするような意味がある。もともと入社1年後とか10年後とか、社会人の経験振り返りに行われていたものが、今では、大学生の就職準備とか、もっと下とか、キャリア教育として行われることもある。(※学生にやらせる意味は僕はよくわからない。場合によっては教える方=キャリアカウンセラー側の自己満足に陥ったりするのもこの界隈あるある)
 
あるいは、有名アスリートがメンタルコーチから教わって語る(著書も普通インタビューで作る)影響もあるだろう。
 
 
// いいわけ化 //
 
こうしてモチベーションが概念化され客体化されてゆくと、中には、「最近モチベーション低いっす」とか仕事場でのたまう若手社員が出現したりする。かといって中高年のモチベーションが高いわけでもなく、ダメな中高年はただ無言のままで存在自体からダメだったりもするのだけど、まあ、そんな言葉の使われ方がされている。そして言葉は認識を作るので、思考と行動も引っ張られてゆくものだ。
 
ここまで読んだアナタは、

「モチベーションを言い訳にするな、仕事はどんな気分でもやり遂げろ!」

と内心ツッコミを入れてることだろう。
 
そう想像するのは、僕の読者層の中心は、耐久スポーツに参加するような、30代以降の勤勉な方々が多いから。この市民アスリート種族は、努力すれば報われる、という価値観の信奉者であり、モチベーションは高くて当然、くらいに思っている人も目立つ。
かれらはパフォーマンスも高いことが多く、ゆえに影響力が大きい。その周囲では、「モチベーションぶっちゃけ低い、でも認められない」てなってる人、意外と多いかも? そんな状態はむしろ健全ではない気もする。
 
 
// 概念整理 //
 
こんがらがってる時には、そもそも何か? と概念レベルに遡って整理するといい。
 
モチベーションの日本語訳は動機。じゃあ動機てなんだ?
ネット英英辞典でMotivationをみると、"a reason for acting" = その行動をする理由、が最初に出てくる。たとえばアナタが走ることへのモチベーションとは、アナタが走る理由ということだ。
 
「アナタが走る理由は、なんですか?」
「なぜ、速くなりたんですか?」
「なぜ、KONAに出場したいんですか?」
 
そんな問いへの答えが、モチベーションだ。
 
motif 〜 モチーフ、というフランス語もあり、意味は「動機、理由、主題」とほぼ同じ。絵やクラッシック音楽などで表現の核となる要素を意味する。♪じゃじゃじゃーん、的なのね。すると上記の質問は 「アナタにとっての♪じゃじゃじゃーん、は何ですか?」 と喩えることもできよう←シネエヨ
 
その第一の意味から派生して "condition of being motivated" =モチベ高い状態、という第二の意味も生まれる。日本語の「モチベーション」の用例の多くはこちらだろう。ただそれは、モチベーションとはモチベーションです、という循環論法に陥ってもいる気するけども。
 
// 要素分解 //
 
じゃあ第一の意味「行動の理由」てなんだ?と考えると、「最初の行動の理由」なら、「きっかけ」と言い換え可能だ。そもそも動機という訳後とは、人を行させる契、の略。そして、その最初の行動をし終えて、じゃあ次は? と展開してゆく中で新たに浮かび上がる理由もあるだろう。ただ、初期衝動のインパクトとは大きなものだ。
 
つまり、モチベーションの主要部は、「きっかけ」である。
それだけでわかりにくければ、その裏にある目的まで考えるとスッキリするだろう。つまり、
  1. あるキッカケがあって、行動を開始した、そのキッカケがモチベーション (辞書の1つめ)
  2. ということは、その行動によって実現したいものがあるんだろう、それもまたモチベーション (新設)
  3. その行動の実行度合い、強弱も、またモチベーション (辞書の2つめ)
である。これがモチベーションの3段階。
 
 
// モチベーションを上げるには //
 
現実の場面で考えると、まず、楽しくない、苦しい、という場面では、「目的」に沿って考えるといい。
  1. 「苦痛」を通じて「達成したいもの」があり =a reason for acting
  2. その苦痛的行動をしたことで、「最終的に達成したいもの」に近づけたと思えて、達成感に昇華され、行動の度合いが強化される =condition of being motivated
中学の部活で顧問の先生がいうような初級編だ。
 
ただ、単純な「苦痛=達成感」パターンでは、どこかで行き詰まることが多いもの。スポーツなら故障・ケガにもつながるリスクもはらむ。
 
別の視点で、「この苦痛の先に、本当に望む達成はあるんだろうか?」という不安が生まれれば、行動の度合いを下げる。これらはモチベーションだけでは解決しない領域に入ってくる。
 
そんな時に、そもそものキッカケ、に立ち戻ってみるのは、1つの手だ。
 
111120_131104_8
Watanabe-Racing, 2011.11, 大磯
 
// 集団の作用 //
 
キッカケとは人それぞれだろうけど、リアルな人の存在は、大きいものだと思う。いくら情報化が進んだとしても。
 
僕はトライアスロンとかの練習は単独でしかしない主義だけど、それでも集団の作用は大きくて、世界最高峰でレースする人たちが身近に表れたことで、レースをする自分、というアイデンティティが一気に現実化した。
 
これは『覚醒〜』第2章 覚醒の過程〜2節 集団のなかの自己 p76-79で書いた、そのまんまの話。ブログでも2009/11 とかに書いている。この出会いなくして、今僕はこんなことをしていない。間違いなく。
 
練習自体はたまにしか行ってなかったけど、彼らの存在そのもの、そのリアルに達成したもの、この先にそんな世界があったんだと目の前で見たことが、時間をかけて、僕をつき動かしていった。
 
適切な集団には、「この先に望む達成はあるんだろうか?」という不安への対策ともなるものでもある。
 
091122190103_2_2
Watanabe-Racing, 2009.11, 藤沢
 
 
・・まとめ的なこと・・
  1. 「なぜ、そうするの?」 
  2. 「その時の楽しさは?」
つまり、WHAT、が先にくるものだろう。その高低の程度は、その次以降にくるもの。
 
てことは、「モチベ上げたい」という時に、意識を向けるべきは、その高低という結果側ではなくて、原因側であるWHATそのものに集中すること。結果は原因の結果でしかないものだから。
 
さらにいえば、
  • 感情の高低ではなく、やるかやらないかを分けるものがモチベーション
  • やらないのは、単に行動していないだけ、モチベーションが低いせいではない
  • モチベ低いかなって時、本当にその目的を実現したいのかを考え直してもいいかもね?
1ついえるのは、モチベーションとは、行動が大前提にあるもの。その前提がなければ問題にすらならない。この状況で真の問題とは心理ではなく、自分の存在そのもの、最も重たい哲学的な問いだ。そんな話どっかの本の冒頭にも書いてあったかな笑
 
モチベ、というわかりやすい概念にひっぱれて、真の問題から逃げることがないよう、気をつけたいものだよね。
 
 
// モチベーションの金銭価値 //
 
ところでリンク社は2007年には東証二部、2008年に一部昇格。安定した地位を保ちつつも、リーマンショック以後の経済立ち直りの中、存在価値をアピールしきれてもいない時期が続いたぽいけど、働き方改革ブームの影響か、この2年で株価急騰してて、2018/5/14終値で 時価総額1,400億円
 
日本経済、モチベーション活用にはまだまだ金銭価値が眠っている。
ただグローバル視点の最先端は、Facebookにも書いた こちらの方だと思うけど。上から改革ですよと与えられるものではなく、個として突き抜けてゆくこと。
 

2018年5月 3日 (木)

練習量過剰で 「脳がロー・パフォーマンス慣れ」 する

長距離レースへの伝統的アプローチは「量を積む」こと。

できるに越したことはないと思う。その弊害を避けられている限り。

弊害の1つに「故障」が挙げられるけど、僕は故障経験が一切ないので(外傷除く)、そこはわからない。「疲労蓄積」もいわれるけど、そこまで練習したこともないので、わからない。疲労で「テストステロン低下」ともいわれるけど、さっぱりわからない。

僕にとってリアルな弊害とは、脳が悪い走りを学習してしまうことだ。

逆に、良いレース準備とは、脳と体に「良い走りだけをリハーサルさせる」。良い走り(&泳ぎ)とは、ペースとか数字の話ではなく、「レース状況でできる最も効率的な動作」であることが大前提。その結果として数字が良ければ良いし、疲労蓄積&リカバリーでゆっくり動かしてても、動作スキルのトレーニングになっていれば、それは良い練習だ。

 

<理論的根拠>

『超一流になるのは才能か努力か?』(フロリダ州立大アンダース・エリクソン教授, 2016)

  1. あるところまでは、量を積めばいけるが
  2. 「なんとなくできるようになる」と、そこで上達が止まる
  3. この壁を超えるために、 "deliberate practice" = 目的を持った熟慮されたトレーニングが必要
  4. 壁を越えた成長へ

というのが頂点への道だ。

これを踏まえて僕の考えを書くと、「練習量を最大化すること」を目的にするのなら、2.「なんとなくできるようになる」というレベルの動作を繰り返すことが、近道だと思う。これにより練習量は自分史上最大にまで増やせるのかもしれない。しかし、そこから先へは、上達しづらくなってゆく。それが同書のいう脳レベルでの話。

同時に、スポーツでは疲労によって動作の劣化が進行する。そんな練習を重ねるとは「レースで失敗する状態」を、脳と体に焼き付けてゆくということだ。

かくして、練習量過剰によって「脳がロー・パフォーマンス慣れ」する。

脳*は全ての起点なので、脳ができないこと以上のことを身体がしてくれることはない。(*脳=神経・マッスルメモリー・その他の知的なものを総合的に含む)

※なお日本語訳では「限界的練習」という言葉が使われており、その原語が "deliberate practice" だとはAmazon書評を信頼して書いた。限界、を逆に受け取る日本人多そうで怖い。「もう限界だ! いや根性でのりきる!」 的な限界とは全く逆なのは、文脈からは明らかなので、ちゃんと読めてさえいれば良いのだけど。

※この本は、ネット記事などでよく引用される「1万時間の法則」(マルコム・グラッドウェル, 2008)を発展的に批判したものでもある。(ある種のトッププロはたまたま1万時間の練習をしたかもしれないが、だからといって1万時間で一流になれるわけではないから、粗すぎるし、場合によっては有害)

Dsc_2259

<経験的根拠>

僕の2010-2014年のJTUランキングチャレンジはずっとその方針。

とくに実力を大きく上げた2012−2013年に、確信を持てた。

当時の目標設定は極めて具体的で、1位にしか意味はなく、2位なら取る意味がないと思っていた(デビュー年に取れてしまった順位なので)。

しかしそのためには、好調をとりもどしつつあった広島の福元哲郎さんに直接対決で勝たねばならないだろう。直接対決で勝つためには、実力で同等以上にした上で、予想しうる様々なアクシデントも封じねばならない。しかもその締切日は決まっている。

同時にそれは、僕の能力の限界領域ギリギリ(=Marginal)の、チャレンジ度MAX。そんな必達目標だった。

どのようにすれば実現できるか? ということをただただ考えていた。

すると浮かんでいたのは、例えば、「1km3:50ペースで幾ら走ってもダメ、1km3:30を使いこなせるようにならなければ絶対無理」といったイメージ。

こうして、「最高のイメージを更新し続ける」というトレーニングの大方針が自然発生した。

それでやってみて、望む結果を得られたので、2013年8−9月のKONA Challenge 期間* では、さらに鮮明に実行してみた。量的&期間的には不十分だったろうけど、それでも、ロングデビュー&条件の厳しいKONAで9時間35分という程度の結果なら残すことはできた。入賞とかはしてないので、まだ上はあるわけだけれど、自分史上で最高の状態を作り、そのとおりに力を出し切ることなら、実現できた。

逆に、失敗した2015年宮古では、「最高のイメージ」に至らず、なんとなくやってしまった。

この2例があれば、僕にとっての理解は十分。

* 「とはいえロングで量も必要ではないのか?」という質問もよくいただく。もちろん「必要な適応反応のための量」は必要、ただその中身は deliberate に考える必要がある。原理は共通。

 

<詳しく知りたい方へ>

著書 『覚醒せよ、わが身体。トライアスリートのエスノグラフィー』 p95-124, p135-166あたりお読みください。そしてその顛末を第4章で。

最近よく聞かれるので、要点を書いた次第。

読んだ人の数だけ正解がある話です。たとえば「練習量過剰」といったとき、どこからが過剰か、どこまでそうでないのか、そこに正確なモノサシはないわけで。なので、みなさんにとって、そこに至る1つのヒントになれば嬉しいです。

« 2018年4月 | トップページ | 2018年6月 »

フォト

『覚醒せよ、わが身体。〜トライアスリートのエスノグラフィー』

  • 初著作 2017年9月発売

Blogランキング

無料ブログはココログ

Google Analytics