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2017年10月の3件の記事

2017年10月10日 (火)

レビュー回答 「僕の幼少期からの3種目スキルレベル」

 
こうも書いていただくと、いえいえいえっ、てなるんですが、とはいえまあ僕は、既存トレーニング理論を超えた自分だけの哲学 〜正解のない世界で、より自分に合ったものに近づくための指針〜 を探ってきたのも確かだ。その動機の一端は、本ではp84, p92あたりに書いた通りだ。そして最終部にも。
 
ただそれらは僕の特殊事例でもなくて、大人になってスポーツを真剣に始めた人達にならば、なにかしら共通する要素だとも思う。だから、セルフ・エスノグラフィーとして本に書いている。
 
一方で、僕なりのスタートラインがあってのことでもある。上記レビューでの質問「幼少期からの3種目スキルレベル」にお答えしておこう。
 
<Swim>
「夏だけ泳ぐ田舎の水泳部に所属し 〜 県大会にも遠く及ばない」(p69) 程度だったけど、アマチュアトライアスロンではこの程度でも武器になった。
 
はじまりはたしか小3-4くらい、家から500mの近さにスイミングスクールができて、通い始めたこと。6年になって町大会で50m平泳ぎ2位に。人口3万に満たない幸田町でのこと、タイムは50秒くらいだと思う。でもずーと運動苦手な僕には十分に嬉しかった。100万人くらいいる世田谷区とかならそうはいかない。
 
僕が唯一マトモにできる運動、というわけで、中学では水泳部に。運動部にあらざれば幸中生にあらず、的な暗黙のカルチャーの中だ。顧問は泳げず、競泳インターハイ経験の先生はバレー部の顧問をしていた。
泳げない顧問は、1時間あたり3,000mの練習量ノルマだけを課して居眠り、でサボると殴る蹴る笑。ノルマに男女も種目も関係ない。そこで僕は最も楽にこなせるクロールに転向した。楽といっても、6月とか日没が遅いと平日でも朝練50分込みで3時間近い練習時間があり、毎日8,000mとか泳ぎ続けることになる。この経験がトライアスロンで活きることになる。ド素人スパルタ顧問のおかげだ笑
 
高校でも2年の夏まで水泳部にいたのだが、中学時代の量に依存した練習習慣は抜けず、かなり遅くなった。この頃のタイムは記憶から抜けている。
 
<Bike>
本に書いた通り、10年前、片道10kmの自転車通勤から今に至るのだけど、おおもとは高校時代に遡る。やはり片道10km、30分かけて自転車通学してた。ブリジストンの通学用スポーツ車的な6段変速。
途中信号で1-2分止まるとして(田舎なので)、平均時速20kmちょい、今からすればとても遅い。今なら同じ自転車でよっぽど速く走れるはずだ。当時は完全に脚だけでペダルを踏もうとしてた気がする。
 
<Run>
100m走の生涯ベストは四捨五入して15秒、高校2年の秋に陸上部に転部し、3年のインターハイ予選の予選の予選の地区大会で5000m17分30秒くらい。体育の1500m走では4分50秒台。(p87-88)
この程度には走れた、という過去はある。たぶんそれは、中学の水泳部で、泳げない秋から春までひたすら走っていたから。土日は標高450m、片道5kmのトボネ山まで往復。この経験も後に活きた。
 
岡崎高校の陸上部は、ハイジャンプ高校大学王者の内田年一先生が熱心に指導されていて、長距離走も駅伝で愛知県Top10入りを狙うレベルだったような記憶がある。そこで8−9ヶ月かちゃんと練習して、それで17分30秒というのは、陸上競技の世界の中でいえば、まったく遅い方ではある。ただ、練習の仕方、考え方の基礎を身につけることができたのは、大きかった気がする。あ、この話は書き忘れたな。
 
それでも、17分30秒というスタートラインが十分に高い、と思われる方もいるだろう。ただ、1ついえるのは、40前後のトライアスロンで競っていたのは、14分台レベルの人達だということだ。
 
<覚醒>
それぞれ、一通りやってはいたわけだが、当時のレベルに近づけることでナントカなってるのは、スイムだけだ。当時から中途半端なレベルのスイム。
37歳になって始めてからの結果は、同世代でトップレベルの運動能力を持つ、10代の頃には想像もつかなかったような相手に対してのもの。そこからの大きな成長なくしては、ありえない。
 
なぜできたのか? この本には、そのために何を考えてきたのか、これまでブログには書いていない完成度で、書いてます。
 
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9/29法政セッションより。「スイミングスクールできたで行きん」とすすめてくれたひとたち!
企画・イベント・いろいろ受けますよ〜
 
サイン&「覚醒せよ」気合い注入の直送本、クレジットカード決済ページ→ https://spike.cc/shop/user_3986276548/products/5l2lX0hn

2017年10月 8日 (日)

書評へのコメント: ルミオカン※第二章限定w "書評評"

↑ とルミオカンブログで紹介いただいた。第二章限定で。紹介箇所の選び方、さすが読みが的確ですわ。

少々、解説しとこう。(斜体部が同ブログからの引用)

驚いたのが、ずっと一人で練習しているイメージだった八田さんも実は集団に属していた期間があり、その期間こそが八田さんをのめり込ませる動機となったこと。

これ全くその通りで、当時の湘南ワタナベレーシングのおかげだ。その価値とは、速くなるための練習というよりも、レース会場にまで足を踏み入らせたこと。その経験は "Zero to One" なきっかけだったとさえいえる。
 
データなんて不要、感覚を磨けと唱えている(と、私は思っている)八田さんも、最初はデータを指標にしていたこと。
 
や、そこまでは言ってないつもりなんだけど、、ま受け手が認識した世界が受け手にとっての世界であるわけで、つまり僕はそんなキャラだってことだろう。。
 
僕は数値は一貫して大事に見てるんですが、その役割は滑走路であって、離陸した後は感覚、という位置づけ。離陸する感覚は僕は大事にしてて、本の別のとこで書いてます。
 
さらに補足すると、滑走路は長く取れるほど、離陸はスムーズだ。データ活用でいえば、データで済む範囲ならばデータで済ませとけばよく、その範囲内ではアタマを無駄に使わずに済む。アタマとは貴重な武器なので、使わずに済むのならば使わずに済ませたい。
さらにいえば、データが多すぎるとアタマがその処理に追われて、本当に考えるべきことを考えられなくなる。だから、同時に見れるのは多くて2つくらい=心拍と速度とか=かなと。
 
これら踏まえつつも、最近のデータの進化は、データへの依存を誘発している印象もある。気をつけようね、というのが僕の立場です。
 
最初にやっていることが、図書館での専門誌の一気読み
 
トレーニングバイブルのような一冊で完結している書籍では、その一貫性がゆえに、自分のアタマで考えなくなる。雑多で矛盾する情報が散在してるのを読み解いていくと、このギャップとはなんだ?と考え始めるので、その過程で理解が深まるのです。一見して論理不整合と思われるものの中には、たまに、より深い真理が潜んでいるのだ。
 
ただし読み解き切れた場合に限る、のだが、僕そーゆーの好きなんで。
 
基本的な動きを把握したらもう、「表彰台を基準にした」目標と練習ペースの設定をしている。
 
ここは本に書いた通り、事前準備的な要因が幾つかある。トレーニング開始時点で、あと必要なパズルのピースがそこだけだった、て感じ。1つだけ挙げれば、4月始め修善寺のバイクレース出場経験が大きい。
 
この時点でもう化け物なのだけど、「もともとの運動能力が、、、」と思うのは早い。
そこに至っておかしくない内容が、その後の部分に惜しげもなく書き記されている。
情報、データ、自己の感覚、身体の反応、、、それら全てを客観的に判断、コントロールすることにより恐ろしいスピードで進化を遂げたのである。
 
いかにも、このことは、効いたと思う。
 
とはいえ、これは僕の特殊事例ではなくて、多くの市民トライアスリートが実践していることの、その特徴をより鮮明にした、象徴的な事例であるとも思う。もしもそうでなければエスノグラフィーとして成立しない。
その証拠に、僕のこういった手法を参考にしようと熱心に読んでくれる読者さんはたくさんいるわけだ。だから本も口コミだけで売れてるわけで。特殊事例なら、こうはいかないはずだ。

ここの内容は是非じっくり読んで頂きたいところなので細かい紹介は避けます。

てゆうか、手短に紹介するの難しいと思う。なぜなら、この箇所の文章は、これ以上削る余地がないくらいに磨ききったスーパー大吟醸だから。読むしかないでしょうね、もしも理解されたいのならば。
 
20170925_701〜日体大図書館からのお礼状
 
おまけ:本の在庫情報
  • Amazon: 9/30頃に初入庫して(本の第一刷の日付通りだ)、どうやら5日間で○○○部が完売してしまった
  • 紀伊国屋: 新宿店は哲学コーナーに平積! ネットストアは116部だと(2017年10月08日 19時23分現在)
  • 丸善&ジュンク堂:  あちこちに。トライアスリートとしての僕のふるさと?藤沢にもビックカメラ店にありますな

2017年10月 1日 (日)

『覚醒せよ。』社会学書としての5つの意味 〜9/29法政セッションちょっと報告

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<エスノグラフィーという手法>

9/29は法政大学にて出版記念セッション。

" こうして得られた市民トライアスロン独自の現場感覚に、学術理論とを対話させるエスノグラフィーの手法により、その内的世界を浮かび上がらせていく。本書がテーマとする身体、精神、その現代社会との関係性とは、文字や数値の分析によるシンプルな因果関係として表現しきれるものではないためだ。それは、自らの身体を賭けて入り込み、その身体感覚を通じた全体的な考察により、はじめて迫ることができる。 " (「はじめに」より)

なにかを調査するとき、その対象が、細分化した課題設定とロジカルな検証により明確な再現性を確保できるものならば、そうすればいい。デカルトの合理主義哲学に基づいたサイエンスの世界だ。ただ、世の中そうは割り切れないものも多い。サイエンスの世界では非合理だからと切り捨てるのだろうが、こうして見失うものも多い。そんな反省から、20世紀以降のフッサール、メルロ=ポンティなど現象学系の哲学が生まれているのだと僕は(浅く)理解している。
 
たとえば、昨日から始まった NHKスペシャル「シリーズ 人体 神秘の巨大ネットワーク」  で、山中教授が30年前に教わった医学の世界観は、頭脳が身体を支配する17世紀のデカルト哲学に沿っていると思う。でも、最新のネットワーク性に基づいた人体とは、現象学が描こうとした世界により近い。こらら最新医学での人体観の変化とは、科学的合理性の限界orテキトーさを示してもいるだろう。
 
これら伝統的デカルト哲学はよのなかに浸透しきっていて、空気のように、そうとは気づかない。時にそれが暴走し、アスリートの成長のブレーキになってるケースも多い気もする。本の2章に書いた話だ。
 
こうした検証は、マッキンゼー流ロジカルシンキングとか無理で、エスノグラフィーという泥臭く感覚的な手法が必要だ。それにより、なぜ(日本を含む)世界の先進諸国の大人たちはトライアスロンするのか? という謎へと踏み込むことができる。
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<この本の "旨み" 5つ>
こうして生まれた 『覚醒せよ、わが身体。〜トライアスリートのエスノグラフィー』、師でありプロデューサーであり共著者である法政大学の田中研之輔准教授によれば、社会学書としての意義は
  1. ノンフィクションやルポルタージュより、<肉薄した身体の記述>
  2. 社会科学の弱点である「プロセス」の記述の克服ー「時間感覚」が埋め込まれている
  3. 国内年齢別チャンピオン自身による「身体の解剖」ー究めた身体の分析
  4. 「個人的体験」の記述のみならず、丹念な聞き取りによる「トライアスリートの世界」の再現性
  5. 沢木耕太郎と三島由紀夫の<間>の「サラウェット>な文体による「臨場感」
だそう。
 
1〜4は、僕自身が、「自らの身体を賭けて入り込み、その身体感覚を通じた全体的な考察により、はじめて迫ることができ」たものだと思っている。
その結果として、沢木耕太郎のようなサラサラに爽やか過ぎるのでもなく、かといって三島由紀夫のようなウェットべとべとな汗臭さもそんなにない、リアルな臨場感を表現することができた。
 
さらに僕がひそやかにライバル視していたのは、村上春樹の(畏れ多い文字列だ) ランニング論だ。もちろん彼の文章力は圧倒的に突き抜けているけれど、走ることについて語る限り、僕には僕の独自で新しい世界観がある。
結果として、スポーツしない読者層にも、このおもしろさが伝わっていることを感じる。
 
法政大学の出版助成制度、エスノグラフィー出版の名門ハーベスト社の小林社長など、その分野のプロのみなさまにも高く評価いただいて、丁寧な製本をしつつも、(学術書としては)低価格での提供が実現した。
 
こうした成果を、ライブなセッションでお伝えし、反応を得ることで、本を出すということが、身体感覚を以て、僕自身に伝わってくる。執筆は文字の世界であり、出版されると成果が数字で評価されて、これらはバーチャルな世界だ。でも、ライブは身体感覚ある地に足のついた世界。これでよかったんだ、と実感できた。
 
贅沢な時間でした。同じ場を共有できた参加のみなさんに感謝。
 
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『覚醒せよ、わが身体。〜トライアスリートのエスノグラフィー』

  • 初著作 2017年9月発売

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