大宅賞受賞のノンフィクション作家、
上原善広 が
18年間かけてインタビューを続け、ついに今年出版された一冊。その対象は、1989年、世界記録にあと6センチまで迫り、ワールド・グランプリシリーズを日本人で初めて転戦し、総合2位となった槍投げの溝口和洋。今ではいえば為末大さん(=世界記録に迫れていない)以上の超大物にもかかわらず、引退後、陸上界の(少なくとも)表舞台から消え、伝説だけが残った、文字通りのレジェンドだ。
しかもその記録は、本当は世界記録であった可能性が高い。1989年のアメリカは日米貿易摩擦を引きずり、反日感情が残っていてもおかしくない。当時40代のドナルド・トランプさんもジャパン・バッシングなインタビューを残していたりして。それで、再計測で記録が8cm短縮され(計測地点をズラしたことが疑われている)、幻の記録とされてしまった。
また当時の投擲競技はドーピング全盛期。(まあそれは今でもだが、検査技術と仕組み化により、きちんと摘発されるようになった) その中で、ゼレズニーと並んでクリーンにたたかっての結果だろう。もちろんヤッてて奴がヤッてたとは普通いわないけど、彼は実際クリーンなんだろうと思う。
そんな中で、身長180cmしかない小柄なアジア人が、そこまで戦うことができたのは、日本スポーツにおける歴史的な偉業なのだ。この本で描かれるのは、それを実現させた彼の徹底した合理思考と、凄まじい練習内容。あいまに、世界を股にかけたロケンロールな武勇伝(笑)
<文章表現>
「常識とみなされるもの」を疑い、「結果」のためだけに必要なことを自分の頭で考え抜き、徹底実行する彼は、それがゆえに(マジメな常識人が多そうな)陸連主流派とは超仲悪い異端者だ。そんな彼を一人称=自伝の表現形式で描く著者は、もともと被差別部落に生きる、ある種の異端とされがちな経験を持つ人たち(たとえば橋下徹氏など)を書いてきたノンフィクションライター。
異分野ゆえの強みもあってか、スポーツ文にありがちな情熱的で物語チックな要素を排して、淡々と事実を連ねてゆく、ただし、18年かけて探り当てた圧倒的な素材を、どこにもない深さで。
主要メディアの書評も総ナメにしているわけだが、そんな特徴を捉えているのが作家、
堂場瞬一の書評 だ。
日本のノンフィクション、特にスポーツノンフィクションは、記録と同時に「人柄」を紹介することを重視する。記録と人間性が一体になって迫ってくるような内容になればベスト、ということだ。
だがこの本で、著者は敢えて溝口の「人間性」の部分を抑えて描いているのではないだろうか。もちろん、独白として挿入される「毒舌」は、溝口というアスリートの独自性を浮かび上がらせてはいるのだが、それでも彼がどういう人間なのか、今一つ想像しにくい。
もしかしたら著者は、溝口に接近し過ぎたのかもしれない。本人になり切っていればこそ、感情の説明ができない――自分の感情をきちんと説明するのは難しいものだから。だがこういう状況で、がぜん溝口というアスリートに対する興味が湧いてきた。もしかしたらこれも、著者の企みなのか? この本は「導入部」に過ぎないのではないか?
スポーツをこうした人間ドラマとして描くのは、雑誌「Number」のように、あるいはNHKスペシャルのように(=スポーツを客観的に描いているかのような気分にさせるある種のドラマである場合がほとんど)、見るスポーツを表現するのには向いている。世間の多数派を相手にする以上、それは当然ではある。
ただ、僕はそうゆうのが好きではない。スポーツにはスポーツだけの世界があるし、そこには余計なドラマは要らない。純粋なノンフィクションとして描いてほしいと思う。この本は、まさにそうゆう表現を極めている。
この「一冊に賭ける」書き手の18年間の重みも伝わってくる。
「忘れられたと思っているのは、実はあなただけなのだ。〜 あの、鮮烈なフォーム。誰よりも遠くへ飛んだやり。私もまた、「溝口のやり」を忘れられない一人だった。」 (著者あとがき 上原善広)
絶対にインタビューできないと確信されていた相手に聞き取りをし、言語化し、最終的に一人称の自分語りスタイルができあがった。それが他にない迫力を作っている。当初は、トレーニングと技術論だけを書くつもりだったのが、それらはそのままで「彼自身の存在意義と哲学」になっていることに気付いて、テーマをより挑戦的なものへと拡大させた。おそらくは、その表現のために、日本のスポーツジャーナリズムの定番「人柄の紹介」を控えた表現を選択してもいる。
最終の232ページ目は、まちがいなく文字数調整して、その8行だけが、見開き2ページに表れるようにしている。この8行のために、18年間があった、というくらいに。
<トライアスリートの視点>
僕がアスリートの目線から注目するのは、例えば以下の箇所。
「実際は力を入れた状態だが、力が入っていないように感じる」
これが本当のリラックスだ。よほど強力な筋力がないとできない。
外国人のリラックスとは、まさにこのことなのだ。それを末端が弱い日本人が真似するからおかしなことになる。 (p56)
投擲競技は全て、骨で投げる。これは「関節で投げる」と捉えがちだが、それとも違う。
例えばシーソーの片方に物体を載せると、もう一方を強く押すだけで物体は飛んでゆく。この「シーソーの板」が骨であり、シーソーの中心にある支点が関節である。つまりテコの原理を応用しようと思えば、「骨で投げる」ことになるのだ。(p57)
肩関節をカチッとはめると、投げのときにその反発を利用できる。(p99)
身体的な不利を克服するために、当時主流だった「欧米選手の表面的な模倣」を排除して、ゼロベースで組み上げた技術。これらは、トライアスロン3種目にも共通する要素を含む。
僕の考えとして、筋パワーは全てのスポーツの基本だと思う。関節をロックし、身体全体を大きな1つのユニットとして動作させるのも有効。またそのロックのためには筋力が必要。
例えば日本柔道も、今になってようやく筋力アップの必要性に気づき、リオで結果を出している。(ついでにいえば、イチローは筋力否定論のようにも見えるけど初動負荷トレーニングの徹底した実践者だし、そもそも100年に1度の天才レベルだ)
長距離トライアスロンも結局は「1ストローク、ペダル1回転、1歩」の積み上げ。その1要素が大きければ、掛け算して差が拡大するのは当然だ。
<故障>
彼が残念なのは、なんといっても絶頂期での故障。痛みを堪えながら感覚が麻痺するまで投げ続けるとか、24時間連続練習とか、「やり過ぎてみる」のが彼の成功の一因ではあったのだろうけど、やはり、そのスタイルでは30代を戦えない。
ケアについて殆ど書かれていないのは、書かなかっただけかもしれないけど、当時の情報不足、意識不足だろう。酒も、筋肉系の故障を誘発するだろう。(サッカーの長谷部選手も、夜遊びで酒飲んでたJリーガーたちは筋肉まわりの故障で引退が早いと言っている)
ただ、競技文化とは、そうゆう失敗経験を積み上げることで、少しづつ育ってゆくもの。彼の経験も、室伏広治選手に引き継がれていったんだろう。
・・・
陸上界から消えた後も、強烈に個性的。
(JA紀南2010より)
トルコギキョウの栽培で成功しているらしい。と調べると、サカタのタネ社が栽培しやすくしてしまった (笑)ようで、競争も激しいのだろうけど、この本をきっかけに「溝口のトルコギキョウ」とブランド化するとさらに儲かりそうだ。
それはそうと・・・
これは客観的事実だが、私のように180cmの身長で、80mオーバーを投げた選手は、世界でもほとんどいない。つまり私は限界まで到達し、そこを超えることができたのだ。この事実以外に、どんなトロフィーがあるというのだろう。
多くの人が私の存在を忘れているようだ。私はそれで良いと思っている。一投に全てを賭けて、それにおおむね勝つことができたのだから。
私には自分に堂々と誇れる過程と結果がある。だから人々から忘れられても、私は何とも思わない。
これほど爽快な、語りがあるだろうか。
僕は、これだけのスポーツノンフィクションを、読んだ記憶がない。もしあれば教えてほしい。
冬休みの読書に一押し。
今年読んだノンフィクションでは「エスケープ」(佐藤 喬)もおもしろかったけど、こっちのが圧倒的におもしろい。(両方読むといいと思う)
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