「ハセツネ30k問題」とでも呼ぶべき論争が、先週から(世間のごく狭い一部で)盛り上がっている。トレイルランニング大会「日本山岳耐久レース」(長谷川恒男カップ)、通称ハセツネの予選30kmレースで必要装備を持たないことで男女優勝者2名(のみ)が失格し、ブログとFacebookとを絡めたSNS時代らしい熱い議論が続いている。
この背景には「登山文化とランナー文化の衝突」があると思う。
<文化の差>
ハセツネの主催は東京都山岳連盟。1993年、著名登山家の故
長谷川恒男 遭難への追悼に彼の地元練習コースを走る、内輪の小さな集まり(といってもフル469人+ハーフ299人、トライアスロン基準では十分多いけど)が起点。初回参加者によると、一目でそれとわかる登山者とランナーが混在してたそう。今や国内トレラン界の最高峰レースとなり、マラソンブームを背景にランナーが大挙出場し、「ランニング文化」が数的には多数派。しかし運営は、少数者の間で濃い文化が共有されている「登山文化」だ。
両者は実のところ、同席しているだけで、未だに融合しきってはいない。登山文化は、死との共存がゆえに安全を絶対正義とする。ランナー文化は根底が競技で、速さが正義だ。すれ違いで登山者は歩くが、あたりまえのように走り続けるランナーは多い。ただしその縄張りは登山者のものだし、実際そうあるべき=歩くべきだが、分離したままだから問題が残る。メディアは一般客の多い鎌倉ハイキングコースを取り上げるが、登山家こそが憤っている印象もある。今回、 「トレランしない純登山系」の方はトレランの存在自体に厳しいなと感じた。(登山道を走るな、と思われてるのを気づいてますか?) 同じ現象は、流行りのスポーツ自転車にもある。
今回なら、登山家なら安全装備をないがしろにするのはありえないし、競争はオマケだから、ルールの明確性、その適用の公平性などは必ずしも重視しない。ランナー文化なら、ルールの表現や適用が曖昧であれば、速さを優先して行動することに、罪悪感がそれほどない(なかった)のかもしれない。
異文化が出逢えば、その過程で摩擦も生じるもの。そこで前を向いて議論することで、文化融合が起き、新たに「トレイル文化」が生まれるだろう。だから、議論を通じて意識が高まるのはよいことだ。本来は。
なんだけど、「絶対許せない!」とか、「絶対許せないなんて絶対許せない!」(=自己矛盾だよね笑)とか、単なる一時的な感情のムラムラを処理してスカッとしたいかのような、コミュニケーションの意図が全く見えない文字列も飛び交っている。これは、異文化コミュニティが衝突していると見れば、わからなくもない。
<炎上の正体>
こんな事態はネット社会で増えて「炎上」と呼ばれ、特に2016年の初めからいろんな分野で、連日続いている。これを「非寛容な時代」と呼んだりもするけど、直接の仕組みは別にある。昔から友達同士ではそんなことを話してたはずだ。そんな会話がスマホ&SNSを介して公開空間へそのまま持ち込まれただけ。実態は同じ、ただスマホによってレバレッジされてるだけ。
かってブログ時代の「炎上」は限られたマニア間だけのもの、今はスマホでみんなが参加し、普通の会話がいちいち表に出る。親しい友達でなくても、また他人相手でも、同じ意見なら気軽にコメントできるから、その量はさらに増える。同じ意見の盛り上がりに煽られて、電話で抗議もするようになる。それがネットの10年間の変化、たぶん。ただしこれらは「その場の感情の処理」に過ぎす、すぐ冷めるもの。
<批判される側の対応>
でも批判を受け取った側は、その数にびっくりして、謝罪やら打ち切りやら、萎縮の度合いを競っているかのようだ。でも数が多いのはアタリマエで、視聴率1%未満の超マイナー番組だって見てる人は万単位でいるわけで、そのうち1%が意見するだけで制作者はビビるだろう。
そうして引っ込めたものには、本来は取るべきだったリスクも含むのでは。真の問題は、運営側の批判耐性、もしくはリスクテイク能力の低さではなかろうか。
整理すると、両者には、優劣が構造的に拡大している。
- 優=批判する側: 人類史上最高レベルで簡単に批判しやすい環境ができ、
- 劣=批判される側: それを受け止めているのに、耐性=対応能力ができていない
先手は行動者、後手はそこにアラがあった時に限って攻撃する「後手有利パターン」だ。これは堅い構造だから、先手にとっては、十分な力の差が必要。(これを恐れて、発信を控えているケースは非常に多いはず)
「不寛容な時代」とは、個人の性格・行動がキツくなってるのではなく(まあストレス社会でそうゆう面もあるのかもしれないが)、批判されうる側である発信者・行動者・運営者・・・側がこれら変化に対応できていないがための、過剰反応によるものだと思う。
こうしたSNS化は世界同時進行。ゆえに「炎上対応」は、今や世界的な企業経営課題になっている。実際ドーピング事件への世界大手スポーツ企業などの対応は、ランスの頃よりシャラポワの方が、圧倒的に手慣れた印象を受けた。予め想定してあったシナリオ通りに淡々と行動してる感じだ。
1つの仮説として書いておけば、「日本人は議論や対立が苦手なことにより、あるいは間違いを恐れる心理により、この対応が世界的にも下手なのでは?」と考えられないかな。
←皇居二の丸庭園
でも、批判を恐れていては成長もない。そこに踏む込むべき理由は、
- 良質な批判とは「新たなや文化や価値観との遭遇」であり、融合した先の進化へのチャンス
- 単なる感情処理で批判するタイプは、多くの場合、付き合うべき相手ではない。無視して実害はないのに、無理して付き合うと疲弊するだけ
- 批判もされないような意見なんて、たいてい、毒にも薬にもならない
などによる。もちろん、改善すべき問題点は改善することは当然の前提としてね。
この1ー2の境目は微妙なもので、人それぞれに違う。政治家なら小選挙区の3割に投票させれば残り7割は敵でいいし、ミュージシャンなら1億人の99.9%を敵にまわしても残りがファンになれば大成功。主婦向けのCMタレントなら不倫はありえない。自分で決めるしかない。
そんな見極めの結果として大撤退するのならよいのだけど、炎上回避自体を自己目的にしてるような面も見えなくもない。
<再び、文化の差について>
ただ、一見タイプ2.の無益にみえる批判にも、なんらかの「文化の違い」は探ることができるはず。所属するコミュニティ内で当然とされる価値観ならば、ロジックで説明する必要がない。リアル人間関係の中でなら、ただ感情を吐き出すだけでいい。共感を得られるし、相手もそれでハッピーだ。ただ、みんなが見てるSNS情報空間に対しても、同じ言葉を当然のように投げ入れてしまう。ある種の集団心理だ。それが作用するコミュニティとは、「登山 vs. ランナー」ほど明確でなくとも、「主婦が不倫を糾弾する」とか、いろいろあるはず。
もしも、「自分の考え(=たとえば怒り)は当然でもないかもしれない」と客観視できていれば、その違いをロジックで説明しようと試みるのではないだろうか? そこでは、「自分とは違う価値観」への想像力が必要。
そしてそれは上記の構造から、まず批判を受け得る側にとっての必須スキルとなっている。ただ現状では、その想像が「怒らせる相手を減らす」ことに向けられている気がする。それによって、その相手との関係が、お互いにとって利益をもたらすものになるのであれば、それでいい。しかし、、(略
一方で、SNSには「やりすぎだ」というバランス回復も速い。どちらにも振れる諸刃の剣であり、毒でも薬でもあるもの。使いこなすほかない。
<一ブロガーとしての僕>
ここまで書いたことは、主張を明確にした文章を心がけているブロガーとしての僕にとって、切実なのです。
僕は、僕なりの価値観に基づき、それを共有する読み手に向けて、「良く効く薬」として書いている。実際、良く効く。ということは、相手と使い方によっては「毒」ともなりうるということ。また異なる価値観の相手にとって、なにかいやなものもあるかもしれない。
そんなリスクっぽいものとどう向き合うか?
僕はこうゆう耐性が強い人間だけど(いろいろな意味でね)、3つの基準を持っている。
1. 大前提は、合目的である、ということ。
「目標達成のための僕なりのアプローチを、必要する相手に届ける」という目的に沿っているか、ということ。裏を返せば、「それを必要としない相手は存在しないのと同じ」ということ。存在しないものに何をどう批判されようが、それは「日本語にとてもよおく似てるけど決して日本語ではない何か」、に違いない。
2.「相手にコミュニケーションの意図」があるかどうかを見極めること。
コミュニケーションを意図していない文字列など言語ではない。謎の漢字タトゥーを彫るガイジンさんにとって日本語はミステリアスなデザインでしかないわけで、それと同じことだ。むしろ路上の犬がワンワンと鳴いてる方が、よっぽどコミュニケーション性がある。
3. 成長の機会としてとらえること。
そんなリスク=つまり毒っぽいものの存在は、同時に薬にもなる。先に書いた通り、「批判される(可能性のある)側」は「する側」よりも、相当に高いスキルを要するわけだ。この立ち位置に身を置くことが、思考力、表現力とを、成長させる。
このブログはもともと自分のために書いているもの。「自分自身が読みたいと思える文章であること」が、ほぼ唯一の基準になっている。そこに他者の視線が入ることには、僕の思考を冷静で客観なものとする効果がある。だから、コミュニケーションの意図を持った指摘はとてもありがたい。どんなに厳しかろうともね。では、意図の見えないツッコミがあったらどうするか?というと、まあ、たぶんきっと長期的には前を向いたものに違いないと仮定しておくのがよいだろう。
<オフロード走ろう!>
なんにせよ、トレランはもっと普及発展すべきもの。日本人ランナーは舗装路を走り過ぎだと思うし。参考「駅伝マン〜日本を走ったイギリス人」→
このハセツネ30k事件を機に、人数的には圧倒的多数派となったランナー文化の方々が、登山文化を学ぶ良い機会になるといい。それが両文化の融合体としてのトレイル文化を育て、ひいては、日本人ランナーとトライアスリートを強くすると思う。
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