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2013年2月の2件の記事

2013年2月14日 (木)

IOCとは、秋元康、のようなものだろう

レスリング除外問題、一部日本人はオリンピックを勘違いしてる気がする。

'64東京の、高いとこに君臨してる神聖で立派で公明正大なNPO/NGO組織イメージが強いんだろう。だから、テコンドーが残るのに不透明だ、とか戸惑ったりするんじゃないか。

むしろ「AKB」だと見るべきだろう。娯楽ビジネスのプロモーターなのだ。

各競技団体を競わせ、強いのから1軍に昇格させて、全体の売上を最大化する。
ブランド維持は最上位命題なので、自転車のように売上トップクラスでもスキャンダル体質が露呈すれば、降格ブラフもかます(=実際には欧・米とも人気なので降格はありえない)

降格争いに伝統のレスリングを加えれば、ボーダー層が必死になるので、さらに売上拡大するだろう。新規参入組は新しく柔らかな発想を持ち込むからね。

レスリングを残すことで新たに拡大する売上と、新種目を加えて増える売上を比較する。相手は秋元康のようなもの、なんだから当然。'84ロス五輪から30年続いてきた流れだ。今さら何を驚く?

トライアスロン子会社さんは、その成功例だろう。「超長距離デュアスロンから中距離アクアスロンへの業態転換」を狙った新規事業がヒットし、昇格を果たした。

226kmのアイアンは水泳を前座に、自転車単独走180kmとフルマラソンの強者を決める、強くて耐える者が勝つレース。オリンピック向け新商品では、水泳1.5kmがレース内予選で、そのトップ集団の中で10km走する競技。集団走での自転車は、水泳の第2グループ対象の敗者復活戦だ。自転車ロードレースのような展開と駆け引きに左右される。自転車の重要度が最も低いのでバランスも取れてる?(その結果、水泳の派生競技みたいになったので、水泳界とトライアスロン界が合併すると日本のトライアスロンはもっと強くなるだろう)

かなりの変質だが、今のブームは、手軽な51.5km型のおかげだろう。それが前者も盛り上げる。市民参加者も激増した。そうゆう好循環をIOCは求めてるのだろう。

では、レスリングは、社会の何を変えたのか?「強豪選手の親が子供を英才教育してメダルを狙う狭い競技」になっているんじゃないのか?というツッコミにレスリング界は答えるべきだろう。

というと、西欧貴族しかしない近代五種は?って話が出るけど、オリンピックの創始者=大株主は西欧貴族なんだから、外したらご先祖様に申し訳がたたない。どんなに少数でも、創業一族が含まれるのならば「聖域」であり続ける。それが統治原則というものだ。文句があるなら、第二オリンピックを自分で作ればいいだけの話。

すると、マイナー格闘技であるテコンドーとレスリングとで、スポンサーやTV契約の獲得力を競うは当然。サムソンとか韓国企業の支援も評価されて当然。「不透明だ」と批判するのは、発想が1964年から半世紀にわたり進化していない(もしくは、1964年時点で見えていなかった、ということだ)

この間の大きな変化とは「スポーツだけやってれば良かった」時代が終わった、ということではないだろうか。昔のスポーツ選手は、それだけやってれば企業が抱えてくれた。今は仮にオリンピックでメダルまで獲っても、自力で生き抜くための戦略が必要になっている。それは選手個人だけではなく、競技そのものも同様なのだ。

まIOCの本音は、単なる「グレコローマン」外し、その駆け引きのカードのような気もするが・・・

2020の招致も、昔ねずみ遊園地を千葉に誘致したようなもんだと思えばすっきりするのではないかな? サヨク系の方は、興行ビジネスの公的支援を嫌がるだろうけど、「千葉ねずみ遊園地」さんは、確実に日本経済を活性化させたし、千葉県と浦安市とを豊かにした。それも公の大事な仕事だと僕は思う。この点への異論は理解するけど。

2013年2月 4日 (月)

【トレーニング心理学】川内優輝選手のように、考える

ハッタリ選手は1月半ばより、5月12日の横浜トライアスロンに向けた16週間トレーニングを開始し、Facebookに経過連載中。同時に、市民アスリートという存在についての考察を深めております。
・・・
昨日プールから戻ってTVつけたら、別府大分マラソンが40km手前、一番美味しい10分間を見れた。見事なレース。
 
川内優輝選手は社会的には「市民ランナー」だけど、身体的には「エリートランナー」にほかならない。弱小学習院から箱根を学連選抜で2度走ったトップ選手であり、その延長で競技を続けているから。その点では実業団組と決定的な違いは無いと思う。「向こうの世界の人」だ。。
 
むしろ彼の真髄は、指導者ぬきに自分で考えて練習していることにある。
それが僕ら市民アスリートにとっての希望なのだ。
好きで走ってることもね、もちろん。
 
僕のトライアスロンも同じく、知識を独学し、日々何をするのか、自分で考える。
ネットのお陰で、トレーニング法も技術も、試行錯誤は最小限で済む。
 
ただ1つ、自分で経験することが決定的に必要なのが、レースだ。
ただ出るのではダメ、「レース前の練習内容とレース結果」を併せて考え、「この練習で、こんな結果」という因果関係を探るまでが「レース経験」だ。
 
その分析は、次のレースに向けたトレーニング方針にも活かされる。
過去のレースよりどれだけ上げるのか、ならば練習内容はどれだけ上げればいいのか。
16週間レベルの中期方針では、ある程度の練習記録を残し、見返すことで、これから何が必要なのかを考える。
日々の練習は、その方向性の中で、今何をすべきかを考える。練習中と終了後の自分の実感を主として、トレーニング理論とかの知識は振り返る際に補完的に活用する。この主従関係であるべきだと思う。
 
共通するのは、自分自身の実感/直感を基準にするということ。
 
必然的に、トレーニング内容は自分で考えるのが、最も速くなる方法ってことになる。
その上で、足りない部分を指導者とかチームとかに求めればいい。
 
・・・
 
体罰の害とは、この習慣/能力を奪いがちである点にあるけれど、それは体罰に限らない、もっと大きな問題だ。善意でそうしてる場合の方が、遥かに多い。そしてそれが問題とされることは殆どないが、大量の芽を摘んでいたりする。

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『覚醒せよ、わが身体。〜トライアスリートのエスノグラフィー』

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