救急車体験の振り返り、そしてスポーツの危険と身体感覚について
“Pain is inevitable, suffering is optional”
身体を危なっかしく使ってると、リスクの何たるかを、身体で知ることもある。
そして、神経細胞がPainfulな刺激いっぱいの電気信号を、脳へ送ってくる。
それを、どう受け止めるかは、僕の自由。
たとえば「苦しむというオプションを僕が選んだ」ということだ。
病院に着けば、麻酔を打ってくれるだろう(たぶん)。それまで、この状況を楽しんでみるとしよう。 と、15時の事故から16時半の処置までの間、考えてみた。
って楽しくないでしょ!
ま、否定も肯定もせず、ニュートラルに捉える事はできるだろう。まず珍しい体験、には違いない。 ここまでの極限状態ってレースにしか無い。そうゆうのを楽しんできたわけだし、それはこれまで上手く行き過ぎたくらいだ。下手な方に振れた最悪が今だとしたら、それでバランス取れるくらいか。
そんな結論に落ち着いた。
自転車の身体感覚はリアルだ。「移動して、辿り着き、新しい景色を見た」「ミスれば、痛い」と、徹底してシンプル。
(今回のような巻き込まれ落車はミスかというと、「落車が起きそうな場所に居た」のは、十分にミスだ、自転車レースの世界では)
対して、野球・サッカー・テニス・ゴルフ・・・など西欧近代スポーツの1つの特徴は、数値化と社会化だ。プレイヤーの技術の優劣を得点に換算し、あなたは勝者です、と社会的承認を与える。それが日本を含めて普及したのは、近代社会が求めるものと重なったからだろう。そんな抽象化を極めてるのが、TVゲーム、ソーシャルゲーム。。
でも、それじゃ生ぬるい、て人は増えていて、走ったり、登ったりしているんだろう。そこでは、一定レベルの危険は必然。ランニングだって交通事故に巻き込まれる。自転車レースは危険に乗って危険の上を危険と一緒に走るようなもの、だが限度がある。
登山だと、危険と名声が無限正比例するから大変だ。尊敬する山野井泰史さんは8,000mの氷壁を命綱も使わないフリークライミングで超速登攀して世界的名声を得た(その方が安全だから、とのことだが・・・)。栗城史多さんの低リスクなパフォーマンスは斬新だと思ってたが、それでも、プレッシャーが判断を歪めてはいなかっただろうか。
僕は想定リスクの範囲内に居る。その極限に少し近づいただけ。Painfulな刺激と共に。それから、確かな身体感覚と共に。
・・・
【記録 2012/10/21 15:00-24:00】
集団後ろのオートバイの役員がすぐに状況確認し、転がったボトルやメーターも集めて、ブレーキの歪みも戻してくれる。「いけそうだね、がんばって!」とクールに応援され(?)、何百mか、片脚ペダリングで本部へ。
レース会場の看護婦さんは、縫合が必要と判断し、救急車が呼ばれる。到着までの間に、Cクラスの落車で脳震盪が発生し、その対応で僕の搬送が遅れた、まあ仕方ない。。
恐らくそのせいで、搬送先は脳・心臓手術の専門病院。当初は「後回し」を告げられたが、当直の若手エリート脳外科医(後日お名前検索した)は様子を見て、脳震盪とほぼ同時進行で処置いただく。麻酔・洗浄・縫合。脳かっさばくプロは普通のお医者と雰囲気から違う!
6時頃かに終わり、ロビーで携帯からFacebookに
”転がっちゃったよ〜。
沼田へぴーぽーと運ばれ処理済みなう
ペインイズイネビィタブル、サファリングイズオプショナル。”
と一報。タクシーで沼田駅へ、前橋〜大宮〜新宿と乗り継ぎ、Facebookのコメントを見たり返したり気を紛らわせながら、夜遅くに帰宅。 ラップとタオルで足首を包んでシャワーを浴び、無事就寝に成功した。「めし、ふろ、ねる」は生活の要だね。
やれやれ。
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